一畳屋の想い

「技術」畳への想い

「想い」お客様への想い

一畳屋の歴史を紐解く

一畳屋、百年の歴史

はじまりの物語

亀井鶴吉という人物

 明治35年(1902)、一畳屋の前身である「亀井畳店」は現在の熊本市中央区坪井で歴史の一歩目を踏み出します。創業したのは私たち四代目の曽祖父である亀井仁八さん、当時二十歳です。なぜ若干二十歳の仁八さんが畳屋を始めることになったのか。それには仁八さんの父・鶴吉さんの話をしなければなりません。
 亀井鶴吉さん、先祖ながらなんともめでたい名前ではありますが最初から亀井鶴吉という名前だったわけではありません。古い戸籍謄本には安政4年(1854)に愛媛県野間口の八木家の4男として生まれ、明治11年(1878)に亀井家に養子として入ったと記されています。時代はちょうど西南戦争の翌年であり、戦地となった熊本市街は焼野原だったそうです。多くの家が焼き払われた後の熊本市街は当然建築ラッシュに沸き、大工を筆頭に左官業・植木業など建築に携わる会社が一気に増えたそうです。そのうちの一つが畳屋だったことは言うまでもありません。そんな時代背景のなか鶴吉さんは「口入屋」という仕事をしていました。落語が好きな方はぴんときたかも知ませんが、今で言う人材派遣業のようなものです。建築の仕事が溢れかえっていた時代ですので、仕事を求める人、人材がほしい会社の間で大忙しだったそうです。あまたの職種のなかでも畳屋の繁盛ぶりが目立ち、それもあって息子の仁八さんを畳屋に丁稚に出すことになるのですが、それはもう少し後の話になります。

道具

苦難を乗り越えて

 鶴吉さんは口入屋をするなかで築いた人脈を元に建築業をはじめることとなります。なんといっても建築ラッシュの只中ですから大忙しだったそうです。そうして数年がむしゃらに働き、熊本でも実績を積み上げていったそうです。その甲斐あってか評判は広まり、それを聞きつけた長崎県は島原の旅館さんから新築の仕事を請け負うことになります。大口の仕事ですからさぞ張り切ったのではないかと子孫ながら想像します。熊本で旅館一棟分の材木を調達し、船で一路島原に向かいました。しかし、そこで待っていたのは不運にも大嵐。船は転覆し大量の建築資材は海の藻屑と消えてしまいました。

作業風景

作業風景

 このことは代々口伝いに聞いたもので、正確にいつの出来事かなど具体的なことは何も分かりません。おそらく人にも被害があったのだろうと思います。悲劇です。この事故により鶴吉さんは莫大な借金を負い、破産状態になったそうです。
当然生活は苦しくなり、当時10歳そこそこの仁八さんは景気が良かった畳屋に丁稚に出されることとなります。丁稚時代の様子は分かりませんが、まだ幼い体で重い畳を扱うのは相当の苦労があったのではないかと想像します。しかも丁稚という立場ですから、主従関係や上下関係などつらいこともあったのではないでしょうか。しかし、その苦労のなかで技術を高め二十歳のときに独立し「亀井畳店」を立ち上げることとなったのです。それが明治35年(1902)のことですから100年以上前のことになります。

 これが一畳屋の前身である「亀井畳店」の生い立ちともいえる物語です。一つ一つの出来事に意味があり、つながりがあり、唯一つの道筋の先に今があることを思うとなんだか不思議な感覚になります。

一畳屋の歴史年表

一畳屋の歴史を築いてきた人たち

初代/亀井仁八

「はじまりの物語」で記したように、一畳屋の前身である「亀井畳店」は私たちの曽祖父である亀井仁八さんによって明治35年(1902)に創業されました。この年は日英同盟が結ばれた年であり、日露戦争に向かおうとしていた時代であります。1902年から1948年というのは日露戦争に始まり、第一次世界大戦、日中戦争、第二次世界大戦とまさに戦争の時代であり、直接に間接に戦争に翻弄された40年だといえます。そういう自分らではどうしようもない荒波を潜り抜けやってきた仁八さん。現代を生きる僕らでは想像もつかない苦悩があったのではないでしょうか。
 創業から昭和15年(1940)ごろまでは大変忙しかったそうです。この時代は今のように機械はなく、すべてのことが手作業でした。つまり、針と糸と包丁だけで畳を作っていた時代です。逆に職人の腕が今以上にものをいう時代でした。畳を運ぶのにももちろん車などはなく、大八車といわれる台車で運んでいたと聞いています。時代劇などで見る車輪も木でできているあの台車のようなものです。2.3kmぐらいの距離ならば畳を担いで運んでいたというから車社会の今では考えられないことです。
 若くして独立し、激動の時代を生き抜いてきた仁八さん。その礎のもとに今の一畳屋があります。

二代目/亀井重男

私たちの祖父である亀井重男さんは明治43年(1912)に仁八さんの長男として生まれ、下に4人の兄弟がいました。そのこともあって尋常小学校を卒業するとすぐに働き始めました。当時13歳で大正の終わり頃です。当時は職人を5.6人抱え仕事も忙しくしていました。その中で10代半ばの重男さんは腕を磨いていきました。今は分業が進んでいますが、当時は畳屋さんが畳床も作っていました。畳床の原材料である藁を10kmも離れたところに取りに行っていたそうです。もちろん車などはないので手押しの台車を引いて行っていたそうです。想像しただけで大変な労力です。ただ、この頃はいわゆる大八車からタイヤ付の手押し車に変わった次期で、今で言うなら自転車からバイクに変わるぐらい劇的な変化で、配送も楽になったと聞いています。
重男さんが家業を継いだのは初代の仁八さんが亡くなった昭和23年(1948)のことです。当時36才。職人としては油の乗った時期ではありましたが、創業者という大きな存在を失い、しかも先行きが見えない戦後間もない時代とあって不安を口にすることもあったそうです。寡黙で粋なおじいちゃんしか知らない僕らにとっては意外な姿です。しかし、その後の高度成長期のなかで畳の仕事も劇的に増え会社も立ち直っていきました。

三代目/亀井伸生

現社長で私たちの父である伸生さんは昭和26年(1951)に末っ子長男として生まれました。高校を卒業後、熊本商科大学(現熊本学園大学)の夜間に通いながら家業を手伝い始めました。ほとんど柔道をしに大学に行っていたそうですが畳と柔道で鍛えた体でバリバリ仕事をしていました。1970年代は公共団地の建築ラッシュであり、和室が2.3部屋あるのも当たり前でした。当時建てられた一般住宅も同様ですから、日本歴史上最も畳があふれた時代になります。おかげで畳業界も一番活気がある時代でした。その中で亀井畳店の中心として活躍した伸生さん。一線を退いた後も手はごつごつのままです。
 1990年には畳の製造ラインを整え機械化をはかり、製造枚数も飛躍的に伸びました。しかし、90年代以降住宅の洋風化が急激に進み、畳の数も1980年をピークに右肩下がりの時代を迎えます。さらには建設会社や不動産会社の下請けが仕事の中心だったこの頃、価格の値下げの要求も強まり方向転換を迫られることとなります。単価が下がれば材料費を下げ、スピードアップを図らざるを得ません。その結果良い材料は使えず、仕事も粗くなります。直接的には建設会社や不動産会社が取引相手ですが、その先にはいつだって一般の消費者の方がいらっしゃいます。すぐに傷んでしまう畳を見れば、消費者の畳離れが起きるのも止むを得ません。
 本当の畳の良さを知る私たち。90年代後半工場移転を機に、一般の消費者に直接本当の良い畳を提供するため、全力を注ぐことになります。

四代目(予定)/亀井慎一郎

そして最後になりましたが4代目(予定)の僕らです。僕らというのは3人いるからです。そう、男ばかりの3兄弟でこれからの一畳屋を担っていきます。僕たちは30歳前後で、この道に入って10年ほどの若輩者です。しかし、代々受け継いできた想いや技術があると自負しております。親の背中をみて育ったこともあって畳の仕事はやりがいがあるものだなと小さい頃から感じていました。畳離れ、和室離れが進んでいますが、日本の気候と風習にあった素晴らしい畳文化をたくさんの人たちに見直してもらえるよう頑張っていきます。そして先祖代々繋いできた歴史をさらに次の代にバトンタッチできるよう精進していきたいと思います。

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